その昔、日向の国に東与助という暴れ者がいて、トカラ列島一帯を荒らしまわっていた。“海賊”と恐れられていたこの一味は中之島に上陸し、宝物を強要した。島人は額を寄せ集め、ある計画を実行した。“落し”といわれる断崖の一角にある小屋に、宝物があると導き焚き殺したのである。この時、与助が連れてきた二人の女のうち、一人は逃げおくれ共に死んだという。この与助の怨霊がブトになったといわれる。ブヨと違い、ブトは人を刺し、かゆい。かきむしると化膿する。ちなみに、トカラ列島の中で、ブトがいるのはこの島だけなのである。いまでも、旧暦7月15日のお盆の夜には、東与助の怨みを静めるために、盆踊りを踊るのだという。
 1976年秋、過疎の島に「力動」が蘇った。トカラ中之島で“最後の丸木舟”造りが始まったのだ。
 「りこう者」の元気なうちに、もう一度“合わせ丸木舟”を造ろう、“ナガサイ漁”もやろう、と青年団長の矢野政人さん(39歳)を中心に、ナガサイ組合が結成された。47人の組合員は、関 伊勢徳さん(71歳)と大山松彦さん(69歳)に率いられて山入りを開始。
 木の霊に「もらいます…」と祈る両古老。ふたかかえもあるローソクの大木が、ヨキ(小斧)と山ノコだけで、次々に倒される。背丈ほどもある長柄のハツリ(大斧)を水車のように振り回して、舟の原形を整える。焼酎ビンの水をラッパ飲みしながら、「昔、枕木出しをやったから……」とうれしそうに笑う彼らは、道路や港湾の土方工事の時とはうって変わった、明るく荒々しい「山師」だった。
 男たちが原木を山から引き出し、女たちが里から迎える「草原の輝き」の中の昼飯は古代日本の「歌垣」を見るようだった。
 原木が山から里におろされた夜、「カエヨシ」という舟祝いの儀式が行われた。主祭が、黒鯛の活づくりと焼酎を、全構成員にすすめてまわり、共同体の契りを確かめた。
 海岸での舟造りは、一週間で終わった。完成の夜、「ワシは、この舟造りに賭けとる!」とつぶやき続けた松爺は、ちょっと寂しそうだった。
 ジンオロシ(進水式)が済み、ナガサイ漁が始まった。「エベス!」という気合いと祈りを唱えながら、ビロウの新芽をロープにつるした追込用の「ウナワ」が投入される。ウナワが縮まったと見るや、水中追込隊が次々と冬の海に飛びこんだ。湾の奥に魚群を追いこみ、いよいよ丸木舟の活躍だ。ゴツゴツ張り出た岩肌の中を二番網、三番網を狭めてゆく。最後は手づかみで首の骨をへし折って、トドメをさす。ナガサイは、サヨリのお化けのような口の尖った魚で、昔は、大群が押し寄せ、海面を飛び狂ったという。魚影は思ったより薄かった。しかし、久々に蘇った漁撈民の殺気が怒号となって湾内に響きわたる。彼らは、やはり「海師」だったのだ。
 この“最後の丸木舟”造りの終焉によって、近代都市日本が、ずっと失い続けてきた、原色と力動の「海彦・山彦世界」を、トカラ中野島も、これから急速に失い始めるだろう。
 松爺は「山彦」、伊勢徳爺は「海彦」だった。彼らのやったことは、海賊を焚き殺して島を守ったというような華々しい、英雄的なことではなかったが、それはそれでしっかりと際立った、いつの時代にも絶対に逆転したり崩されたりすることのない、一種永遠の勝利性をおびた「人間のワザ」であった。